千年先を見据えた再生型牛肉畜産
北海道大学 北方生物圏フィールド科学センター 耕地圏ステーション
教授 後藤 貴文
柔らかい肉質や繊細な味わいが海外からも高い評価を受けている「和牛」ですが、焼き肉・ステーキ・すき焼き・しゃぶしゃぶ・肉じゃがなど、私たちの日常の食事から切り離すことはできません。しかし、牛に与える餌の値段が高くなっていることや育てるのに手間がかかることから、畜産農家が年々減ってきています。このままでは、近い将来、私たちの食卓から牛肉が消えてしまうかもしれません。
後藤教授は、最新の生物科学とテクノロジーを使って、人手を省き、おいしい牛肉を生産する技術の開発に取り組んでいます。この取り組みは、自然界の物質循環を考慮した放牧によって、飼育のコストを下げ、畜産農家の過酷な労働環境を改善することにも繋がるため、持続可能な畜産の実現に貢献します。
後藤教授の考える、千年先を見据えた持続可能な畜産、そのために必要な技術、また、畜産に携わる人材の育成方法について、お話を伺いました。
日本の畜産業の課題
―輸入飼料に依存してきた畜産ー
日本の畜産業では、家畜の餌を海外からの輸入に依存するという、加工型畜産が主流を占めています。肉の消費量が急速に伸びる高度経済成長期に、海外の飼料を安く輸入できたことがはじまりです。1990年前後には、貿易の自由化によって海外からの牛肉輸入量が急増し、日本の畜産は差別化に迫られ、加工型畜産への流れが一層強まりました。その結果、安価で栄養価の高い輸入飼料を与えることで実現する、霜降り肉という、世界に類をみない高品質な牛肉が生産されるようになりました。
しかし、世界的な人口増加で飼料穀物の需要が増大し、また、パンデミックや国際紛争の影響で飼料穀物の供給が滞るようになったため、輸入に頼る加工型畜産のシステムが打撃を受けることとなりました。
高齢化などの担い手不足の影響によって畜産農家が減少する中、飼料穀物の市場価格の上昇に伴う経営環境の悪化によって離農に拍車がかかっています。農林水産省によると、肉用牛を育てる畜産農家が、2024年は前年に比べて5.4%減少したそうです。
後藤教授は、飼料穀物に頼ることなく、牧草からタンパク質を作り出すことができる牛の特性に着目し、持続可能な再生型牛肉畜産技術の開発に取り組んでいます。
再生型牛肉畜産における肉量と肉質の制御
―難しい放牧での行動管理にデータを活用ー
飼料穀物に頼らない畜産では、牛を牧草地に放し自由に草を食べさせる、放牧型畜産に転換しなければいけません。しかし、自由な放牧では、牛によって牧草を食べる量や運動量が異なるので、肉量と肉質にばらつきが出てしまいます。そのため、牛ごとの行動や体重、さらに、放牧地自体の状況などのデータを活用して、個々の牛の行動を管理し、肉量と肉質を制御しなければなりません。
後藤教授は、その第一歩として、放牧する牛の栄養状態や運動量を検出するセンサーを開発しています。センサーを全ての牛に装着することで、個々の牛のデータを収集できるようになります。これらのデータを人工知能に学習させ、求める肉量と肉質に育てるための適切な採食量のような関係性を見つけ出せれば、例えば、この牛には、これくらいの補助飼料を与える、といった指示を個別に出せるようになります。現在は、センサーを開発している段階なので、牛ごとの管理に必要なビッグデータの収集はこれからです。
一方、リモートセンシングの精度が向上しており、衛星画像データを使って放牧地の牧草の生育状況がわかるようになってきています。近い将来、雲を透過して地上を観測する技術の実用化が見込まれており、天候に関係なく、数十分間隔で観測データが手に入るようになります。放牧地の状況を見ながら、牛たちを放牧する区画をローテーションしていくというような放牧管理が実現するそうです。
これまでも、放牧地の観測データや、牛に装着したセンサーからの個体データはありましたが、それらのデータを統合して活用するところまではできていませんでした。データを統合して解析することで、個々の牛を管理できると後藤教授は考えています。
後藤教授は生理学的な代謝システムにも着目しています。牛によって太り方が違うため、放牧管理だけでは、目標とする肉量と肉質にたどり着けないからです。
人間の医療分野の研究で、お腹にいる胎児の頃から幼少期にかけての栄養状態が、その後の代謝システムに強く関係することがわかっています。例えば、食料不足が続いた戦時中に生まれた人は、大人になると肥満になりやすくなるという報告があります。
後藤教授は、このような研究をもとに、牛について調べたところ、母牛の妊娠後期に栄養を適度に増やすと、お腹の中にいた胎児が成牛になった際の肉質の脂肪分が増加することがわかりました。このようなメカニズムを「代謝プログラミング」といいます。後藤教授がこのメカニズムを明らかにするためには20年近くの時間がかかったそうです。栄養状態の制限による肉量や肉質のコントロールを検証する実験には、妊娠中の母牛への餌の与え方や生後間もない子牛へのミルクの与え方を管理した上で、少なくとも3年は成牛まで育てるのに時間がかかります。それを繰り返すわけですから、栄養条件の違いが肉量や肉質に与える影響を明らかにするまでには、気の長い実験期間が必要だったのです。
胎児の段階で栄養状態をコントロールした後に、子牛を牧草で育てる手法は、飼育コストの低下だけでなく、自然環境の保全や温室効果ガスの削減にもつながるため、再生型牛肉畜産の実現に寄与できると後藤教授は考えています。また、放牧は牛が自由に動き回れるためストレスがかかりにくく、アニマルウェルフェアの観点からも適しています。こうした放牧管理のためのデータ確認や自動給餌機の操作などは、タブレットやスマートフォンに集約できます。つまり、どこにいてもスマートフォンで牛の状態を確認し、エサを与えることができるようになります。これにより、農家の方の生活が家畜の世話に縛られず、より自由な生活を送れるような畜産が実現するかもしれません。
技術・データ・哲学で創る未来の牧場
―持続可能な農業を創造するアグリMBAコース―
後藤教授の未来の構想には、モデル牧場の実現があります。このモデル牧場では、新たに開発した自動給餌機や衛星センサーなど、新しい畜産の方法を体験できるようにします。さらに、このモデル牧場を活用し、畜産の基礎から実践的なノウハウや技術、さらには哲学的な部分まで学べるような、新たな農業の学びの場を、北海道大学のアグリMBAコースという形で創りたいと考えています。
新しい農業には、農学の知識だけでなく、工学や食、健康など多岐に渡る知識が必要です。そのためには、多様な分野の人々との協働、例えば2000人近くいる北大の研究者と一緒に取り組みたいと後藤教授はいいます。色々な先端技術を学びながら、現場の状況や環境についても同時に理解するような、「片手にペンを持って、片手には鍬を持て」という札幌農学校で教えていたクラーク博士の教育理念を実現する場になるはずです。
―持続可能な農業を目指すために―
現在のスマート農業は、生産性や品質といった至近の目標達成を目指すに留まり、農業政策として、目標とする農業の全体像を描けていないことが課題であると後藤教授は語ります。持続可能な農業の実現のためには、環境負荷や食の安全性といった観点からも議論する必要があります。百年先、千年先のことまで考えた上で、地球の食料についての方針を議論すべきだと後藤教授は指摘しています。日本が持つ高い技術力を応用するにしても、農業に対する哲学まで深く踏み込んで議論した上で、方向性を決めることが大切だといいます。
例えば、持続性と言った際に、何を評価すれば十分なのでしょうか。牧草地はメタンやカーボンを吸収しているのか、周囲の山林からの影響はどれほどあるのか、雨で牧草地の糞尿が流れ出した場合、川や海にどのような影響を与えるのかなど、多角的にアセスメント、つまり評価しなければなりません。そのためには、陸の上についての研究者だけでなく、山や海についての研究者たちとも連携し、地球全体にとって何が最適なのかを見極める必要があります。しかし、山と陸と海を結んだ総合的な評価は難しいというのが現実です。畜産についてのアセスメントでは、アメリカには、豊富なデータやそれをもとに開発された評価ソフトウェアがありますが、日本はこの分野が不得意です。日本でも、アセスメントに関する評価軸を作るような、丁寧に収集したデータを扱う地道な研究が必要だと後藤教授はいいます。
このような研究は、千年先を見据えて方針を定め、それに基づいて百年単位のプランを作成し、実行していくというような時間軸の中に位置づけて、推進する体制を整えるべきだと後藤教授は考えています。
未来を担う人たちへの期待
―新しい価値観が未来を創る―
未来の牧場を作るためには、技術開発や人材育成、アセスメントなど、やるべきことは多いですが、Z世代と呼ばれる若い人たちの価値観に後藤教授は期待しています。
Z世代は環境問題や社会的な課題に敏感で、そんな意識に合った体験やスキルアップの機会があれば、時給が低くてもアルバイトをするなど、以前の世代とは大きく異なる価値観を持っているように思われます。戦後世代は「食べるために働く」、続く高度成長期の世代は「お金を稼ぐために働く」という価値観を持っていたのに対し、今の若い世代は、食やお金よりも「情熱やスキルアップ、そして社会的意義を意識して行動する」ようです。
また、現代は「パーソナライゼーション」の時代とも言われ、個々のニーズに合わせた多様なサービスの提供が求められるようになりましたが、Z世代の価値観は、この「パーソナライゼーション」に深く結びついていると考えられています。今後は、農産物にも多様性が求められる時代となり、畜産農家は、一律に霜降り肉を目指すのではなく、消費者一人ひとりのニーズに合わせた多様な肉質の生産が求められると後藤教授は予測しています。
さらに、これからの農学教育では、「これがスタンダードです」と一方的に教えるのではなく、さまざまなバリエーションを示しつつ、個々の希望に合わせて、適切な方法を一緒に考えていかなければならない。そのためには、もっと若い世代に仕事を任せてみて、失敗したとしても、年配の世代が補いながら、一緒に改善を重ねていくのが良いのでは、と後藤教授は語ります。
再生型牛肉畜産の未来を見据えた後藤教授の人材育成に対する考え方に勇気づけられ、新たな畜産の担い手を目指す若者が、今後たくさん出てくるのではないでしょうか。