研究者インタビュー06
特任教授 西邑 隆徳

2025-02-26
  • 研究者インタビュー

未来の模範農業

北海道大学 総合イノベーション創発機構
特任教授 西邑 隆徳

 地球環境の回復力が限界を迎えようとしている現在、農業のあり方が問われています。
 130年前、農業における生産と分配の最適化を探求し、地域社会と調和した農業の未来を描いた若者がいました。その時から、農業技術は格段に発展しました。改めて、何を指標として食料生産に取り組めばよいのか、地域社会を含めて何を大切にすべきなのか、西邑特任教授は語ります。

先輩に学ぶ最適な生産と分配
―農業と環境の共存を考える―

 人類の地球に与える影響が、地球システム本来の回復力の限界を超えようとしていると言われています。
 人口増加による食料危機を回避するため、化学肥料や農薬が投入され、灌漑が行われ、農業機械が導入され、穀物生産量は飛躍的に増えました。また、世界中に肉食文化が浸透し、飼育技術が向上したことで、食肉の消費量は、最近50年間で5千万tから2億5千万tへと5倍に拡大しました。
 一方で、世界の温室効果ガスに占める農業由来の排出量の割合は22%となり、農業が地球環境に大きな負荷をかけることになりました。
 農業を行うことは、人類が生存する上で、必須の営みです。だからこそ、農業を続けるためには、環境とのバランスを保ち続けなければなりません。つまり、農業生産と環境負荷のバランスを考えながら、人類にどのように分配するのかを考える必要があるのです。
 130年前、農業における生産と分配の最適化を考えていた23歳の若者がいました。その若者は、のちに北海道大学(旧札幌農学校)畜産学科・畜産第一講座の初代教授となる橋本左五郎氏です。
 橋本氏は、当時手に入る限りの専門書を読み、家畜・家禽の成長過程などに応じた適正な養分の要求量を調べたり、牛舎や畜舎の構造を考えたりして、「模範農業」という卒業論文にまとめました。その論文では、農業生産を最大限に拡大することを目的にするのではなく、北海道で農業を営む各農家が、持続可能な収益を得て自立することを目的にした場合、どのような規模の農場を持ち、どのような輪作を行い、どれだけの家畜を飼育すればよいのかを論じています。論文の最後には「今は人の影のない北海道の平野や、秋風が枯れ木に響く原生林が耕地や牧場となり、老若男女が和やかに語らう声が聞こえる豊かで平和な未来を想像するだけで私の胸は喜びで満たされます」と記しています。
 卒業後は、畜産学の研究者として牛乳処理技術の開発に携わり、乳糖結晶化に関する研究や、練乳(コンデンスミルク)製造用真空釜の開発をしています。そして、各農家の安定収入に繋がる、練乳製造の企業化の端緒を開き、北海道煉乳株式会社設立にも参画しました。大学発ベンチャービジネスの先駆者ともいえそうです。
 西邑特任教授は、10数年前に橋本氏の卒業論文に出合い、それ以来、自分自身が描かなければならない「模範農業」とは何かを考え続けているといいます。

リジェネラティブ農業への挑戦
バランスの崩れた地球にどう向き合うのか

 気候変動のネガティブな影響については喧伝されていますが、細かく見ていくと、農林水産業にネガティブな影響だけでなく、ポジティブな影響を与える場合もあります。例えば、北海道で、ブドウの品種の一つピノ・ノワールの栽培が可能になり、1960年代には1つしかなかったワイナリーが、現在では70を超えています。また、北海道米の品質も向上したと言われています。しかし、農業全体でみれば、ネガティブな影響の方が強く出てきてしまっています。
 そもそも農業による食料生産というのは、人類が1万年かけて作り上げてきた、地球生態環境に最適化したシステムです。陸圏・水圏・大気圏の物質循環の中、生物の多様性と生物同士の共生に基づいて成り立っています。ところが、現在は、このバランスが崩れてしまったため、物質循環のバランスを取り、生物多様性を回復し、損なわれた地球生態環境を修復・再生することが必要となっています。
 この状況は、130年前に橋本氏が北海道の農業、日本の農業をどうすべきか考えていた時と同じフェーズではないか、この課題に真正面から向き合うことが模範農業を考える橋本氏の姿勢だったのではないかと西邑特任教授は考えます。
 真正面から向き合うとは、バイオテクノロジーを駆使して培養肉を開発することや、ロボットに農作業を肩代わりさせることではなく、太陽の恵みで農作業を行い堆肥として土に戻すという、循環型の伝統的な農業技術を再評価し、土壌の健全性や生物多様性を回復し、損なわれた地球生態環境を修復・再生させる農業システムをつくりあげることではないかといいます。
 土壌の健康、生態系の回復、そして持続的な生産を目的とした食料生産のアプローチに、リジェネラティブ農業があります。リジェネラティブ農業は、耕地圏の生態環境、生物多様性を回復させることで、未来の生物資源を確保する取り組みです。また、栄養価の高い食料を世界に供給する基幹産業として農業を位置づけ、生産性と収益性を向上させることで、Well-beingな地域社会の実現を目指しています。この農業は、耕地圏の生態環境のバランスを取ることに重点をおいており、温室効果ガスの排出削減につながります。

 リジェネラティブ農業は世界から注目されており、2019年に設立されたOne Planet Business for Biodiversity (OP2B)は、リジェネラティブ農業への移行促進を目指して活動しています。OP2Bはダノン・ネスレ・ユニリーバ・グーグル・マイクロソフトなどの世界的企業26組織で構成されており、2024年に出された報告書によると、36億ドルを投資し、30万人の農家が携わることで、390万haの土地に影響を与えたとしています。
 世界の大企業は動き出していますが、日本の企業はまだ動いていません。里海や里山を地域で守ってきたように、自然と調和しながら、自然に手を加えるという手法と考え方を持っている日本人こそ、リジェネラティブ農業を進める先頭に立つべきだと西邑特任教授は考えています。

複雑なシステムを複雑なまま理解する
どうやって地球全体を捉えるのか

 リジェネラティブ農業は、これまで陸圏・水圏・大気圏と、それぞれ個々にやっていたところを繋ぎ合わせてシステム化し、食料生産をしなければなりません。その時に重要なのは、ホロビオントという考え方だと西邑特任教授はいいます。
 ホロビオントという言葉は、作物の研究をしている若い先生と雑談をしている時に耳にしたそうです。この言葉は、進化学者リン・マーギュリスが提唱していて、複数の異なる生物が共生関係にあって不可分の一つの全体を構成すること、つまり、異なる種の個体同士が共生関係を通してホリスティック(全体的・総合的)な存在として機能することを意味します。
 現在、ホロビオントの考え方に沿って、複雑なものを複雑なまま全体として丁寧に扱うという、複雑系の研究の流れが出てきています。遡って、アリストテレスが「全体とは、部分の総和以上のものである」と見抜いていたように、「全体」を扱うことは、研究の方向性として必然的なことかもしれません。
 この複雑系の考え方は西邑特任教授の長い研究生活の経験からも納得のいくものでした。複雑系である食料生産に対して、要素に分解して検証するという従来の方法を用いて研究を進めてきたのですが、それで本質的なところにたどり着けるのかという疑問を持っており、筋生理学者の名取禮二氏の言葉が、印象に残っているとのことです。
 名取氏は、戦後まもない頃、筋収縮のメカニズムの解明に取り組んでいました。そして、骨格筋を構成する細胞である筋線維から細胞膜を剥ぎ取ったスキンドファイバーを作り出しました。ミシン油の中で細胞膜を剥いだスキンドファイバーは、電気刺激に応答し、機能が保たれていました。そこから、筋収縮のメカニズムの研究が発展していったのですが、一方で、名取氏は要素に分解して調べていく生物学のアプローチに対して警鐘を鳴らしていました。「生物学の研究においては、分解した要素が統合されて全体を記述できる保証はありません。細心の注意を払って観察すべき」と、名取氏は述べています。
 要素に分解したことで、欠落してしまったものはないか、常に考える必要があると西邑特任教授はいいます。
 リジェネラティブ農業は、地球環境生態系に存在する多様な生物資源を食料や生活資材に変換する、農林水産業で行われるべき方法です。だからこそ、生物圏のすべての要素(土壌・微生物・植物・動物)における物質・エネルギー循環を、複雑系であるホロビオントとして相互作用を解析し、統合的に理解するべきだと西邑特任教授は考えているのです。そのためには、これまでの学問体系を壊して、地球環境食科学といった新しい学問体系を作っていく必要があるとも考えています。

地域社会とともに歩むリジェネラティブ農業
自然・社会・人間の再生に向けて

 自然や生き物の持つ低環境負荷で高度な機能を最大限活用したネイチャーテクノロジーや、ロボット技術などを活用した作業の効率化や、品質向上を実現するスマート農業技術で、リジェネラティブ農業システムを推し進めるとしても、それだけでは現在の地球環境を守り切れないと西邑特任教授はいいます。
 また、今後の環境変化に応じて育種開発を始めても間に合いません。ゲノム編集技術といった新しい技術開発も加速していますが、環境変化が起こってからの対応では、遅いのです。
 そのため、これから起きそうな環境変化を予測して、様々な可能性を踏まえて準備しておく必要があります。予測するためには、空間情報やフィールド情報の融合を可能とするモニタリングシステムを構築しなければなりません。また、そのデータを使って生態系のストレス耐性や復元力や環境収容力を解析し、人間活動に対する環境応答や回復速度を評価しなければなりません。したがって、未来に向けた農業を考える場合、さまざまな分野の研究者が一緒になって取り組む必要があり、自然科学分野だけでなく、人文科学分野の知恵も欠かせないといいます。
 このようにして農業がうまくいったとしても、地域が滅んでは意味がありません。地域社会の環境が整っていないと、一次産業はうまく成り立ちません。地域の継続には水道・エネルギー・交通・医療・教育などの地域インフラの整備・維持も不可欠です。これらが整備されなければ、地域住民が定住し、農業を続けることが難しいからです。だからこそ、農業に直接携わっている方々を中心に据えながら、研究者、企業の方々、自治体職員が一緒になって、それぞれの地域に適したデザインを描かなければならないといいます。

 農業には、単に食料を作るだけではなく、風景を作り、人を育て、コミュニティを支える力があります。たとえば、北海道には、収穫期や田植えの時期の人手不足を補うために「でめんさん」として、近所の人に手伝ってもらう仕組みがあります。農作業の合間に雑談をする中で、地域のつながりが生まれ、お互いを気遣う状況が醸成されるのです。
 橋本左五郎氏が「模範農業」で記したのは、単に効率の良い農業ではなく、地域社会全体を支える農業でした。つまり、「模範農業」は標準化することではなく、それぞれの地域が持つ特徴を活かす農業の形態を探り出すことでした。これは、ワインに個性を与える「テロワール」にあたると考えられます。テロワールは、もともと「土地」を意味するフランス語terreから派生した単語で、土地の地理・地勢・気候による特徴を示す言葉です。この特徴によって育まれた個性が、ワインのような生産物に特別な価値を与えますが、人もその地域の環境に育てられ、地域に根ざした個性が育まれると考えられます。
 農業という産業は、地球環境だけでなく、人間の内的環境、心と体の環境をも再生する機能を有する産業だと西邑特任教授はいいます。

そして後輩に残すもの

 西邑特任教授は、北大農学部で40年近く育ててもらって、農学の方向性ってこれでよかったのだろうか、後輩に何を残せているだろうか、と振り返ることがあるといいます。そして、何を残せるか考えた時に、北海道大学(旧札幌農学校)の2期生で、思想家の内村鑑三氏の言葉が、その方向性を示してくれているのではないかと思ったそうです。
 内村氏はキリスト教徒の夏季学校で、『後世への最大遺物』と題した講話を行っています。金と事業と思想も良い遺物だが、最大ということは、誰にでも残せるものではいけない。それは「勇ましい高尚なる生涯」だと言い残しています。「美しい地球、美しい国、楽しい社会 何かこの地球にMemento(形見)を置いて逝きたい、生まれた時よりも少しなりとも良くして」とも話しています。
 内村氏の講話を目にしたことで、未来を支えるリジェネラティブ農業を進めていくことが自分に残せるものではないかと改めて思ったという西邑特任教授は、少し鋭い眼差しで次の150年を見つめます。

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