未来の食料を支える遺伝子制御システム
北海道大学 大学院農学研究院 基盤研究部門 応用生命科学分野 分子生物学研究室
教授 尾之内 均

近年、日本では地震や異常気象に伴う災害が多発していますが、地盤沈下や津波によって高い塩濃度を持つ海水が地下水や土壌へ浸入すると、農作物は塩害の被害を受けてしまいます。塩害は、雨の少ない草原や岩塩地層をもつ地域における大規模な灌漑などでも発生します。世界では、農地の5分の1が塩害の影響を受けていると推定されており、塩害の克服は大きな課題となっています。
尾之内教授は、遺伝子の発現制御によって、塩害を軽減する耐塩性作物の創出を目指しています。また、遺伝子の発現制御システムを理解することが、他のさまざまな過酷な環境に耐えられる作物を創り出すことにもつながると考えています。

地球規模の食料不安
―塩害に対抗する作物生産に向けて―
現在、食料不安が世界的な課題となっており、その解決が求められています。
国連世界食糧計画(WFP)をはじめとする国連機関やEUなどで構成される食料危機対策グローバルネットワーク(GNAFC)が発表した「2024年食料危機グローバル報告書」によると、2023年には59の国と地域で約2億8200万人が急性食料不安(深刻な飢餓)に陥っています。その主な原因に、紛争と治安の悪化、経済の影響、異常気象の影響があげられています。この食料不安に農業が貢献できる対策として、異常気象による農作物への被害の軽減があります。
また、日本では、農地が海岸に近い地域が多く、地震による津波や台風における高潮などによる、海水の農地への浸入がみられます。そのため、食料不安が比較的少ない日本においても、農作物に対する塩害対策が必要です。
農作物に対する塩害対策においては、塩害が生じる植物のしくみを理解することが重要です。
植物が塩害を受ける原因となる主な物質は、ナトリウムイオンとマグネシウムイオンです。
ナトリウムイオンは根から吸収された後、葉に流れ込んで貯まってくると、光合成を妨げ、作物に深刻な障害を起こすことが知られています。そのため、高濃度のナトリウムイオンに対応する植物のシステムは、よく研究されており、ナトリウムイオンから身を守るイネや小麦の品種が開発され始めています。
一方、高濃度のマグネシウムイオンに対応する植物のシステムはあまりわかっておらず、高濃度のマグネシウムイオンへの植物の耐性を高める方法の開発は進んでいませんでした。
マグネシウムは、あらゆる生物にとって生命を維持するために必要な物質です。特に植物では、光合成において中心的な役割を持つ光合成色素のクロロフィルに含まれています。また、多くの酵素の活性に必要なため、アミノ酸やタンパク質、炭水化物の合成にもかかせない存在です。このようにマグネシウムイオンは植物の生育に必須なのですが、マグネシウムイオンの濃度が高すぎても、植物はうまく育たなくなってしまいます。
尾之内教授は、植物が高濃度のマグネシウムイオンに対応する細胞内のメカニズムに注目して研究を行っています。

塩害に立ち向かうゲノム編集技術
―生命現象のしくみの理解から品種改良へ―
尾之内教授は、学生の頃に分子生物学を学んだことをきっかけに、生命現象の分子メカニズムの研究を始めたそうです。
尾之内教授が学生だった1990年代、生命現象の研究に対して、生物学研究者だけでなく、化学研究者や物理学研究者も加わり、分子の性質を基に生命現象を説明しようとする分子生物学が成熟しつつありました。そして、生物を構成する物質や生命の維持に必要な物質の合成や分解の過程、また、その物質の分子構造も盛んに研究されていました。
その時期に分子生物学を学んだ尾之内教授は、生命現象の分子メカニズムの精巧さに感動し、自分もそういう分野の研究をしていきたいと思うようになったそうです。そして、分子生物学は、現在も、ますます面白くなってきているといいます。さまざまな実験技術が開発され、以前であれば不可能であったようなアイデアの実験ができるようになっています。
近年の分子生物学研究で欠かせない技術が、ゲノム編集という実験手法です。ゲノム編集は、生物が持つ全遺伝情報の中の特定の塩基配列だけを狙って変化させる技術で、生命現象の分子メカニズムを理解したり、遺伝情報を変化させた作物を生み出したりする上で重要です。

尾之内教授はシロイヌナズナに対してこの技術を用いることで、植物が高濃度のマグネシウムイオンに対応する分子メカニズムを調べました。シロイヌナズナは、他の植物に比べてゲノムDNAのサイズが小さく、生育期間は6週間ほどと短いため、比較的速く実験の結果を得ることができます。しかも、シロイヌナズナであれば、植物に感染性をもつ細菌であるアグロバクテリウムが入っている液に、つぼみをつけた茎を浸すだけでゲノム編集ができるのです。このようにして塩基配列を変化させた種子を育て、高濃度のマグネシウムイオンへの反応を調べていきます。
尾之内教授は、このような実験を繰り返し、高濃度のマグネシウムイオンが存在しても生長できるシロイヌナズナを作ることができました。植物が高濃度のマグネシウムイオンに対応する分子メカニズムを完全に明らかにするためには、まだ研究が必要ですが、塩害に強い作物を作り出す第1歩を踏み出したのです。

植物が高濃度のマグネシウムイオン存在下で生長できるしくみ
―小さな配列が遺伝子を制御する―
生物が様々な環境に反応するしくみの一つとして、遺伝子の発現制御があります。環境に応じて、各遺伝子によるタンパク質の生成量を変化させる仕組みです。
生物の遺伝情報は4種類の塩基の配列としてDNA(deoxyribonucleic acid)に保持されています。タンパク質をつくる遺伝子では、タンパク質を構成するアミノ酸の並び順がDNAに塩基配列としてコードされています。そして、このDNAから転写によりmRNA(messenger ribonucleic acid)が作られ、mRNAから翻訳によりタンパク質が作られますが、この遺伝情報の流れをセントラルドグマと呼びます。
尾之内教授は、タンパク質をつくる遺伝子の上流に位置するuORF(upstream open reading frame)を使った発現制御、特に遺伝子の発現を強く抑制するようなuORFに着目しました。このuORFは、遺伝子がタンパク質のアミノ酸配列をコードするmORF(main open reading frame)と共にDNAからmRNAに転写されますが、mORFを翻訳してタンパク質を生成する過程をuORFから翻訳されたペプチドが妨げると考えられています。そして、uORFの配列をゲノム編集の技術を使って壊すと、遺伝子発現の抑制が外れ、遺伝子がコードするタンパク質の発現量を増加させることができるのです。今回、あるuORFを壊すことで、高濃度のマグネシウムイオンが存在しても生長できるシロイヌナズナを作ることができるようになりました。
この方法の良いところは、特定の遺伝子の発現の抑制を外すだけなので、遺伝子組換えという操作をせずに発現量を増加させられることです。また、現在はシロイヌナズナだけで実験していますが、ゲノム編集が可能であれば、他の作物にも応用できます。

他の分野との出会いによって生まれる新たな視点
―新たな育種技術で植物の可能性を拓く―
異常気象による食料不安は塩害だけが原因ではありません。乾燥や高温も作物に大きなダメージを与えます。それらの過酷な環境に対処できるような作物も作ってみたいと尾之内教授はいいます。
uORFをターゲットとしたゲノム編集は、環境に合わせて植物の持っている能力を最大限に発揮させることができ、汎用性も高い技術です。それぞれの環境に対応する植物の生体内の分子メカニズムを把握し、重要な役割を持つuORFを見つけ出し、遺伝子の発現をコントロールすることができれば、それぞれの環境に対処する能力をもった作物をつくり出すことが可能と考えられます。
しかし、シロイヌナズナ以外のさまざまな作物で実現するためには、やはりその作物の専門家と一緒に研究しなければならないそうです。作物によって、ゲノム編集の実験手法は違ってきますし、生育条件や生育期間も異なります。
尾之内教授は、生命の分子メカニズムに対する興味から研究を始めましたが、北大で農学研究者と一緒に研究するうちに、実際に作物の品種改良に応用してみたいと思うようになったそうです。また、他の分野の人と話をするうちに、役に立つ研究は必ずしも食料生産だけではないということにも気がついたといいます。
基礎的な研究を一歩一歩進めてきた尾之内教授。その研究は、異常気象の被害を軽減することで未来の食料の確保につながります。

北海道大学創基150周年特設サイト
研究者インタビュー https://150th.hokudai.ac.jp/activity/category/interview